医学博士・医学ジャーナリスト
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植田 美津恵
日本の医療・福祉・健康を考える

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コラム「一刀両断」コラム「一刀両断」の連載。

2005年4月28日~5月17日掲載
テーラーメード医療は本当に可能か?

 テーラーメード、あるいはオーダーメード医療の言葉が華やかだったのは少し前の話。既製服とは違い、寸法を細かく計って作り上げた自分だけの着物や洋服のように「自分だけの医療」を意味するこの造語が登場して以来、科学者らは夢に酔い、いまだに莫大な税金を費やした大規模研究が世界の各国で行われている。フィンランドのように60万組の双子を調べたり、あるいは50万人の健康状態を30年近く追跡しようとする英国のように、主にがんや生活習慣病の解析をすべくプロジェクトが先進諸国で進行中だ。しかし、テーラーメード医療は言葉だけが先行し、その実現の可能性は極めて少ない。科学の世界にあって、こうなったらいいな~という希望的観測が先走って手がけたものの、今では壁にぶちあたり、研究者の焦りと失望感が見え隠れしている。テーラーメード医療という甘い言葉に惑わされ遺伝子関連の会社を立ち上げたベンチャー企業も当初の勢いはすでにない。研究に挫折や壁は当たり前。誰もが簡単に達成できるのなら「研究」とはいえない。言いたいのは、研究の方法論や費用対効果といった枝葉のことではなく、病気の解明目的で遺伝子を相手にしようとする発想そのものである。遺伝子さえ解明できればがんや生活習慣病が「わかる」という短絡的思い込みと社会的思慮の希薄さである。病気とは、人の体とは、単にそのものだけがここに存在し得るわけではない。 自然があって、時の流れがあって、文化や歴史の中にあって、他人がいて自分がある。病気になるのも事故に遭遇するのも、自分の力だけではどうにもコントロールしようがない。生まれてくるのさえ自分の意思とは何の関係もない出来事である。何かを理解しようとするとき、そこにはマクロな視点とミクロな作業のバランスが欠かせない。病を語るというのはその人を知る術にもつながるが、それを遺伝子というミクロなキーワードだけで解き明かそうというのは人間の傲慢さにもつながる試みである。いったい遺伝子を解明し、病気の仕組みを解析し、それがどれほど人々の役に立つのだろうか。例えば遺伝子を解明すれば、あらかじめ効果のある薬とない薬、副作用が出るものと出ないものとがわかるという。しかし、それを果たして製薬会社が許すだろうか。試行錯誤といえば聞こえがいいが、効くか効かないかわからないものをあれこれ投与するからこそ製薬会社は莫大な売上げをあげることができるのだ。医学研究の目的は色々あるだろうが、究極は病で苦しむ人々の救済にある。とすれば、がんであれ生活習慣病であれ患者の願いはただひとつ、「苦痛の除去」である。以前、なぜがんが怖いかをランダムに尋ねたところ、「痛いのが嫌」という答えがほとんどであった。現在、がんに代表される致命的な病による痛みを完全に取り除く方法は確立されてはいない。もし、病気になっても痛みを感じることなく、死の恐怖を味わうことなくやすらかに一生を終えることができれば、病気や死に対する思いもまた別のものになるかもしれない。このまま出口のないテーラーメード医療にお金を注ぐくらいなら、病による耐え難い痛みを感じなくてすむような薬や技術の開発を、世界的課題としてもっと積極的に推進するほうがはるかに賢明で納得のいく道だと思っている。ここにきてこの思いは、以前同じテーマでテーラーメード医療を批判したときよりも遥かに強いものである。

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