医学博士・医学ジャーナリスト
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植田 美津恵
日本の医療・福祉・健康を考える

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コラム「一刀両断」コラム「一刀両断」の連載。

10月2日~11月21日掲載
現代医学は人体実験である

 先月末、東京慈恵医科大学付属青戸病院で、経験のない医師3人が技術的に難易な前立腺腹腔鏡下検査を行った結果、患者を死に至らしめたとして逮捕された。罪名は業務上過失致死罪。途中で開腹手術に切り替えるなどの緊急処置が遅れた、輸血の準備さえしていなかった、大学の倫理委員会の承認も得ていなかった、それどころか委員会の承認を得ることも知らなかった、などなどいずれも常識を逸した行動とみなされ、日々非難の声の大合唱である。当然のことながら、新聞の社説もこぞって医師や医療のモラルの低下を厳しく糾弾する論調で占められ、患者を人体実験として扱うのはもってのほかである、との意見も多くあった。しかし、あえていうが、現代の西洋医学は皆「人体実験」以外の何ものでもない。あるいは人体を対象にした、果てしない「試行錯誤」だ。そう言われて拒否反応を示すのなら、現代医学には関わらないほうがいい。西洋医学は、病気を敵とみなし、その敵をとことん攻撃し、体内から除去してしまおうというのが基本的原則である。漢方や鍼などのように、病気はそのままにしておいて、もともとある体の免疫力を高めようとする考えとは、まったく別ものなのだ。なぜ、戦争が起こるたびに医学は進歩するのか?それは、ナチスのみならず、あらゆる国々で捕虜となった人々を「実験台」として扱ってきた賜物だろう。あるいは日々、多くの患者が「実験台」となって新しい薬を投与され、新しい検査を受け、新しい手術を受けてきた、その失敗と成功の繰り返しの結果に過ぎない。進歩の代償としての「負の結果」のほうがはるかに数は多い。江戸時代に行われた「人体解剖」は、日本の医学を飛躍的に進歩させた、との評価が高い。今や誰も、あのときに解剖などやるべきではなかったとはいわない。ほとんど無意識に、それが医学の進歩につながり、我々もその恩恵にあずかって生きていることを知っているからだろう。しかし私は、現代の医療制度や医療過誤を問うのであれば、歴史的偉業とされるこの「人体解剖」の是非まで問うべきであると常々思っているものである。

 「新しい」医学とは、それまで誰も経験のないものであることを意味している。仮に今回の手術が成功していたら、間違いなくこの医師らの自信は高まり、前立腺腹腔鏡下手術の普及は加速度的に進んでいったことだろう。その可能性もまた五分五分であったと思う。医療とはそういうものだ。西洋医学は長い歴史上繰り返されてきた「人体実験」によって進歩してきた。その点をまずは認める必要がある。決してきれい事でも聖域でもない。しかし、それが事実であっても、人の命を対象とする以上、単なる実験であっては許されないのもまた確かである。1964年にヘルシンキで採択された「ヘルシンキ宣言」は、現代の医学が医師主導の人体実験であってはならないという強い理念のもとに築き上げられた、医師の医学的倫理に関する規定である。言の中には、「医学の進歩は、最終的にはヒトを対象とする試験に一部依存せざるを得ない研究に基づく」、あるいは「現在行われている医療や医学研究においては、ほとんどの予防、診断および治療方法に危険および負担が伴う」など現代の医学研究の性質を認めた上で、だからこそ「被験者の生命、健康、プライバシー及び威厳を守ることは医学研究に携わる医師の責務である」と謳っている。今回、問われるべきは「業績をあげたかった」という医師の本音や経験がなかった点ではない。ヘルシンキ宣言に則った、人間に対する厳かな気持ちと謙虚さの欠落である。 今回逮捕された3名全員が30歳代だ。医師でなくても、仕事を持ったまっとうな社会人であるなら、自分の仕事に対する「プロ意識」「道徳」「使命感」などが相応に育まれていなければならない年齢だ。医学教育のあり方に批判が向けられるのは当然である。医学の進歩は止めることができないだろう。であるなら、医師も患者も医学の「人体実験」の側面に目をそむけることなく、かつその実験がより良い結果をもたらすよう、現代人の知恵と文明社会の成熟さを活用しつつ臨んでいく姿勢が必要だと思う。

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