医学博士・医学ジャーナリスト
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植田 美津恵
日本の医療・福祉・健康を考える

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コラム「一刀両断」コラム「一刀両断」の連載。

2月5日~2月28日掲載
患者の権利について考える

 医療の実態が明らかになるにつれ、また情報公開が進むにつれ、声高く提言されるのが「患者の権利」である。患者の権利が何を指すかといえば、具体的には医師に病名や病気について尋ねることや、疑問に思う点を質問すること、自分のプライバシーが守られること、嫌なことは嫌ということ、などなどをいう。最近よく耳にする「カルテ開示を求める」動きも、自分のカルテ(医療情報)は知る権利があるのだから、求められれば医師はその要求に応える義務がある、といった論調になる。1981年に、世界医師会で採択され1995年に改定された「リスボン宣言」では、良質の医療を受ける権利、選択の自由、自己決定権、健康教育を受ける権利、情報に関する権利、などといった事項が並んでおり、これを基本に日本でもいくつかの市民団体や病院などが「患者の権利章典」を作り、患者中心の医療を作り上げることを目指している。

 当たり前といえば当たり前だが、もっと他に言い方はないものかと考え込んでしまう。もともと日本人には「権利意識」が乏しいといわれる。「あ・うんの呼吸」が尊重され、なあなあムードが好まれる風潮が根強い。そういう文化を持っている。それがいいか悪いかは別として、医療の場面では専門家である医師の言うなりになってしまうことがままあり、そのために医療事故などを誘発し、情報がさらに閉ざされ、患者側に不満が残ることが多いために、もっと権利を発揮しよう、その権利を大事にしようと勧めているのだろう。しかし、現実的に患者があれもこれも権利を盾にして医師に向かって発言することはほとんど不可能だ。何しろ、自分は専門家ではなく、わからないことだらけであり、自己決定権だの選択権だのといわれても、とにかく「お任せ状態」になるのが普通であり、そのほうがよほど楽だからである。

 権利意識をあからさまに表面に出せば、「うるさい患者」と煙たがられるのがせいぜいで、かえって自分にとってよくない状況が待ち受けているのも何となく理解できるだろう。患者が自らの権利を主張することが、果たして医療事故に遭わないことにつながるかどうかも甚だ疑問である。なぜなら、事故が起こるか否かはほとんど「運」に左右されるからだ。聞きたいことを聞き、言いたいことを言っても事故が起こるときは起こるもの、それが医療というものの宿命でもある。それだけ不確かな科学技術に命を預けなければならない理不尽さは、患者権利を「守ろう」とか「持とう」と呼びかけをしても解決できないものだ。では、どうしたらいいかというと、そこで出てくる意見は、患者も勉強しなさいとか、患者もしっかりしなくてはいけない、というものである。しかしいくら勉強しても、ほとんどの人は医師らと対等に対峙できる力を持つことができるとは思えない。せいぜい、意地悪な医師に文句を言ったり、不満をぶつけることはできるだろうが、ではそれが「権利」かといえば、何となく違うような気がするのである。

 医療事故を黙認するわけでも、人間的に未熟で患者を傷つける言葉を吐く医師を擁護するわけでも、また患者が自分で考えることを否定するわけでもない。しかし、医療という行為は、不確実性の高いものであり、非常に専門性の強い分野であり、にもかかわらず医師であれ患者であれ、人間と人間の関係性で成り立っている世界だということをまず認識する必要性を言っているのだ。外国に倣って、権利がどうのこうのというのも大切かもしれないが、それよりも、自分に合った医師や看護師を見つけよう、と率直に言いたい。その人間性や医療技術が自分にとって納得できる人々との関係を構築しようと強調したい。であれば、片方だけが権利を主張してすむものではないはずである。特にこの国では、権利の一人歩きはそぐわないし、うまくいくとは思えない。「あ・うんの呼吸」でいいではないか。

 権利を強調するよりも、そういう人間関係を作るようにすれば、自然と病気についての説明も受けられるし、思い切って言いたいことを言ってみることもあるかもしれない。極端な話、医療事故が起こっても、一生懸命してくれたことなら仕方がないと納得できるかもしれない。そう、ぶっちゃけていえば、たとえ医療行為を受けるなかで事故が起こって命を縮めることになっても、(時間はかかるにしろ)、いい意味でのあきらめがつくような、そんな人間関係を作ろうといいたいのである。日本人には馴染まないし、人から教えられて始めて気づく「権利意識」という実体性薄い概念より、そのような人間関係を築く努力をし、うまく医療やその専門家と付き合っていく自分を育むことのほうが、ずっと賢い方法だと思うのである。

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