医学博士・医学ジャーナリスト
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植田 美津恵
日本の医療・福祉・健康を考える

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コラム「一刀両断」コラム「一刀両断」の連載。

4月20日~4月30日掲載
「A2」という映画が突きつけた重い課題

 「A」「A2」という映画がある。どちらもオウム真理教(アレフ)を描いたドキュメンタリー映画として、現在「A2」は「知っている人は知っている」類の映画館でのみ上映されている。森達也監督の手により、1998年の「A」の続編として出来上がった「A2」は、2001年山形国際ドキュメンタリー映画際コンペティション部門市民賞と特別賞を受賞し、釜山や香港の映画祭でも好評を得た。

 ここで映画の解説をする余裕はないので、観ていない人のためにパンフレットの解説からその一部を引用し、内容の概略として示したい。『…再びカメラを手にした理由を訊ねられて、森(監督)は言葉少なくそう語った。しかし半ば不本意ながら始まった撮影は、信者と住民との軋轢がいちばん激しいと喧伝されていた地を訪ねたことで不意に加速する。マスメディアは決して伝えようとしなかったが、この地ではオウム排斥運動にかかわる住民たちと信者との間に、不思議なコミュニケーションが築かれつつあったのだ。教団が巻き起こした凶悪な犯罪を深く憎みながらも、信者たちを人間として受け入れようとする意識が住民の中に芽生えていた。こうして森のキャメラは各地を巡りながら、断絶されたコミュニケーションとそれに対比する交流や葛藤を克明に記録した。それまでイメージでしか捉えていなかったオウムの信者たちに実際に接し、自分の子や孫と見比べてしまう住民の戸惑いや煩悶。そして「出家」の名のもとに社会と断絶したはずの信者たちも、住民たちの情に触れることで、再び社会と向き合うことを迫られていた。』映画の場面は、1999年9月、「宗教団体アレフ」の広報部長に就任したばかりの荒木浩がコンテナ倉庫に保管していた資料を新たな施設に運びこみ、整理作業に没頭する場面からスタートする。およそ2時間強にわたるこの映画は、密度が濃く、その内容はずっしりと重い。台本や打ち合わせのない状態で、目の前で起こっていることをただひたすら映しただけの撮影、一切のナレーションを排除した編集、音楽などの装飾のない素の画面…、それゆえ通常のマスメディアによっては決して語られない「現実」がくっきりとさらけ出されている。

 彼らのやってきたことを擁護するつもりは毛頭ないが、それとは全く別問題として、そこに描かれているのは歪んだ報道の姿、日本のマスコミの劣悪な精神性であった。すでにマスメディアは、ありのままの現実を伝える力を失っている。一種の驕りのもとに、「現実」の操作・粉飾・排除などが意識的に、ときに無意識的に日常茶飯事おこなわれ、結果的に事実は事実として存在しえなくなっている。そのような事例は、ごく身近なところでも体験できる。たとえば先月、立て続けに政治家や官僚らの証人喚問が行われたが、驚いたことに、全てがライブで放送された一連の内容(当事者の発言や野党とのやりとりなど)とそれを伝える報道内容とはあきらかに乖離があった。報道は、マスメディアにとって都合のいいところだけを切り貼りした結果、内容そのものに歪みが生じていたのだ。その違和感はライブを観ていたものでないとわからない。だから怖い。夜のニュースでその一部しか知り得ない人にとっては、ニュースのキャスターや画面を通してしか状況を見れないのだから、彼らのフィルターが曇っていれば、当然そこにはまったく違う「もの」しか存在しなくなる。われわれが信じ込まされていることは「虚構」に過ぎないということだ。「A2」では、現場取材したことと警察報道のそれとが180度違うのに、居合わせた記者はあっさり後者を報道する。自身の目で見た事実よりも警察報道を優先する、それは「悪しき習慣」なのだという。

 また、ある記者は、たとえ事実であっても、それがオウムを少しでも擁護する内容であれば決して報道はできない、と正直に述べている。現在われわれが触れるものは、TVニュースでも新聞報道でも、多かれ少なかれ作る側の意志によって何がしかの「色づけ」をされている。そう肝に銘じ、常に我が目と心の清澄さとを保持していなければ、あっという間に「虚構」という名の魔力に流されてしまう。その魔力は、わかりやすい「犯罪」という名の行為よりも恐らくずっとタチが悪い。

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