医学博士・医学ジャーナリスト
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植田 美津恵
日本の医療・福祉・健康を考える

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コラム「一刀両断」コラム「一刀両断」の連載。

8月29日~9月22日掲載
携帯電話で日本人はバカになった

 携帯電話の普及のすさまじさは、今さら改めて口にするまでもない。最初はビジネスマンのために、次いで若者や学生に広がり、今度は主婦や熟年層に、そして今では小学生が携帯電話を使用している。最初、携帯の電話料金は目が飛び出るほど高かった。今では随分安くなったのだろうと思っていたが、やはりまだまだ高い代物らしい。携帯電話の通話料金を払うためには、どこかを削ったり我慢したりする必要があり、そのせいで本やCD、ゲームソフトが売れなくなったというから、すでに携帯電話は文化圏に侵入したといってもいい。

 この場合の「文化」には、礼儀作法や常識が含まれている。歩きながらの携帯電話は、特別急な用事があってのことでもなさそうなのに、しょっちゅう見かける光景となった。同じく歩きながらの、あるいは電車の中でのメールのやりとりは、時に一心不乱な面持ちであり傍で見ていても気味が悪い。携帯電話に神経が集中し周囲がまったく見えていないため、海外ならひったくりやスリの格好の標的である。治安のいい日本ならではの風景だろう。一昔前まで、子供たちが電話で連絡を取ろうとするときには、家にかけるしかなかった。最初は怖い大人が出ることが多いため、皆緊張したり挨拶言葉を考えたりしなければならなかった。たとえば「夜分遅くにすみません」とか「こんにちは、○○ですけど」というように。ところが、携帯電話はそのような常識言葉を一掃した。いきなり「あっ、おれおれ」で始まり「今どこ」と言う。枕詞も挨拶言葉も吹っ飛んでしまっている。言葉使いは時代とともに変化するという人があるが、これらは変化ではなく文化の崩壊である。携帯電話のせいで、自分の子供の行動範囲や交友範囲がすっかり見えなくなったと嘆く声もあるが、これも携帯電話を子供に持たせれば至極当然の結末である。

 私の知人で、高校生の娘にせがまれても泣かれても携帯電話を使わせないという人がいる。理由は「必要ないから」。娘は言う、「いまどき携帯がないと友達もできないよ」と。これに対し彼女は「そんな友達が本当の友達といえるのかよく考えなさい」とピシッと切り返す。彼女は正しいと私は思う。しかしある日驚くべきことが起こった。高校の担任教師が、今後はすべての連絡事項は携帯電話を使って行なう旨を皆に通達したのだ。知人は早速抗議をし、その予定は撤回されたが、携帯電話を持っていないかもしれない生徒の存在を思いやれない教師の存在こそが恐ろしい。知人は教育への失望感を深めた。彼女はまた、携帯電話は「約束のできない人間を育てている」とも言う。待ち合わせ場所を決めていても、携帯電話を使って直前に変更することができるため、一つ一つの約束ごとに重みがない。ひとりだけ携帯電話を持っておらず、約束の変更を知らされなかった娘は待ちぼうけを食った格好だが、それに対しても何とも思わない、つまり携帯電話を持っていないほうが悪いのだという気持ちしかないらしい。さらにある大学教授は、こう嘆く。「とにかく文章がひどい。まるで友達に送るメールのような文章しか書けないので、レポートになっていない」しかし、以上のような例を並べても「でも、便利だから」と多くの人々は携帯電話の使い方を見直そうとしない。老若男女すべての層にそういう輩はいる。携帯電話は便利である、だから普及する。本来は生活に不可欠なものではないのに、今や生活に欠かせないと口にする。これはいったい何なのだろう。新しい文化、ニューライフと言う人もあるが、そのように定義されるにはいささか高尚さに欠けている。

 先月、サンフランシスコでIT関連の大きなコングレスがあった。メーカーや販売会社が多く集まり、将来に向けてのIT市場の行く末を論じた。海外からのある参加者は、日本の携帯電話の普及ぶりに驚きつつ、それが自国でも同様に普及する可能性があるか否かを考えた。結果、彼の結論は、「内容があまりに幼稚。コンテンツが本当に役立つものでないと私の国では広がらない」というものだった。幼稚だと指摘されたのはコンテンツではなく、それを使う人々だといわれたような気がして居心地が悪かった。携帯電話の技術が発展すれば、我々の生活に必要なものになるのだろうか。しかし、問題は「使い方」である。技術が進歩すればするほど、それを使いこなす人間の英知を問われるものだ。携帯電話を取り巻く今の様相は、すでに人間の負けを突き付けられているような気がして、何とも気が重くなる。

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