医学博士・医学ジャーナリスト
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植田 美津恵
日本の医療・福祉・健康を考える

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コラム「一刀両断」コラム「一刀両断」の連載。

7月17日~7月23日掲載
機械に魂は存在するのか

 7月7日の「THE VANCOUVER SUN」(バンクーバーの新聞)に、「機械に魂は存在するか」をテーマにした記事が、見開き半分を占めるボリュームで掲載された。 この場合の機械とは、いわゆる「ロボット」を指しており、これは7月1日に公開されたスティーブン・スピルバーク監督の映画「A・I」にちなんだ特集記事である。書き手は、ピーター・カッタウェーという人で、以前にスターウォーズに登場したロボットを見たときにも同様の疑問を抱き、この点について何人かとネット上で熱い論争を展開した経験を持っている。ピーターが指摘するとおり、ロボットに「感情を表わす」プログラムをセットすれば、いかにも感情があるように見せることはできるが、部品の集合体であるロボットが何がしかを感じることは有り得ない。これが冒頭の疑問に対する常識的な答えである。が、彼はその結論にとどまらず、その他のいくつかの映画をもとりあげ、登場するロボット達と人間の関係性をからめた見解を述べている。ロボットを医療や福祉の分野で活用しようという意見はもはや珍しくない。独り暮らしの高齢者や寝たきりの人が増える一方で、彼らの世話をする子供や若者がどんどん減っていく危機感が、現代のコンピューター社会とマッチし、かつては夢物語だったロボットの存在がにわかに現実感を帯びてきた。ロボットのペットが発売され話題を呼んだのも記憶に新しい。そのペットもあっという間にリニューアルし、声かけをすることでそれが誰かを認識したり、頷いたり首を傾げたりする反応を見せることも可能になった。名前を呼べば呼応することで、この種のロボットが独り暮らしの人々に結構評判だという記事を目にしたこともある。これらは、人間の期待に添うようにプログラミングをされているため、この方向性でロボットの開発は益々進むだろうし、すでに「ロボット」という呼び名が与える既存の概念を打ち消すような高精度なマシンが日々開発されているだろうと思う。

 未熟児として生まれたり重い病気を持って誕生した乳児たちが、点滴などのチューブを体中に巻き付けながら保育器の中で眠っている。小さな体で一所懸命闘っている姿を追うテレビ番組を見ていて、ふとあることに気がついた。それぞれの保育器の中に、熊のぬいぐるみやおもちゃがそっと置かれてあるのだ。1日も早く元気になって欲しいという親心を思うと胸を打たれるが、しかし、意識も認識力もなくただ眠っているだけの乳児にとっては、ぬいぐるみはただの毛糸であり、おもちゃは単なる鉄のかたまりである。毛糸や鉄の部品を可愛く形どっているだけのことに過ぎず、しかもそれをかたわらに添えることは、乳児にとって何の意味もない。しかし、「親心」がそういった冷静な判断を超えるのである。その行為を責めることは誰にもできない。人間の愛情とはそういうものであり、言葉では説明しがたい理不尽さやおろかさ、そして報われない苦しみと常に背中合わせにある。呼べば寄ってきたり、寂しいときに体に触れたり、ささやけば恥じらうようなロボットができたとしても、それは人間とは違う「もの」である。しかし、その事実を忘れがちになるのは、人間の側にある期待感や人間しか持てない感情が存在するせいだろう。「コンピューターに使われないようにしよう」とのいましめは、今では声を潜めた。私達はすでにコンピューターに日々振り回され、もはやコンピューターなしの生活は考えられなくなっている。これを、まさしく「コンピューターに使われている状態」だと言うのを誰が否定できるだろう。ピーターは、記事の中でこれまで見たいくつかのロボット映画をあげているが、ロボットを扱う人間が実は新種のロボットだったという皮肉なテレビドラマも紹介されている。私たちは、本当の「人間性」「人間らしさ」とは何なのかが分からなくなった時代を迎えている。 働く人の人間性がもっとも要求される介護や医療の分野でロボットの活用を声高に叫ぶのは、効率性しか頭にない人間の発想である。たとえ、介護の人手不足を補うためにロボットを使う時代が来たとしても、あくまで人間が主体であり、ロボットや機械は人間に「活用」される立場にある。精度の高い機械をいかに使うかは人間の度量にかかっているのだ。ピーターの呈した「機械に魂は存在するか」という問題提起は、文明社会の根本に据えるべき哲学を、すでに私たちが見失っていることへの警告と受け取れた。

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