Production著作/論文
コラムコラム-“病気”や“医療過誤”についての連載。
理不尽な医療過誤からわが身を守るためにはどうしたらいいのか。
今週は、人手不足という問題を抱える現在の医療制度を離れ、患者の立場に立った観点から医療過誤を考えてみたい。
経済学で捉える医療においては、他とは決定的に違う点が常に強調される。
それは「情報格差の大きさ」である。モノでもサービスでもいいが、何かを購入しようとするとき人はそれを手に取ってみたり、使い方を店の人に確かめたりするだろう。
同じものでもデザインや価格の違いを考慮しつつ、複数の店に足を運び、最終的に自分の最も気に入ったものをお金と交換して得ている。その「買い物」という行為は私たちが日々何気なく行っている行為であり、消費行動とも呼ばれる。
が、同じように医療を考えたとき、通常の買い物とは決定的に違う状況が存在する。その代表が、消費者(患者)と売り手(医療側)との間にある情報格差である。
専門家達で構成される医療の分野では、患者は情報を持たない。知りたいと思っても素人にはわからないことが多すぎる。
医療もサービス業といわれながらも、実際はわけもわからず大量の血液を取られたり、冷たい機械に囲まれたりし、苦しみや痛みを伴う検査中心の行為に遭遇せねばならない。
検査の結果病名わかり治療を受けたとしても、即効果が現れるわけでもない。
サービスという名の医療行為を受けるためにお金を払っていながら、それに相当するだけの満足感や納得感を得られるとは限らないということだ。そもそも専門家でない患者が検査を選択したり、治療について希望を述べたりすることは不可能に近い。
特に日本人は医者に弱く、きちんとまともに話もできない。とすると、そこには通常経済学でいわれるような「消費」の観念で医療サービスを考えること自体無理があるというものだろう。
少なくとも病院内で行われる医療行為は、サービスという言葉にはそぐわない。
お金を払う側が、その内容(この場合検査や薬)についての情報がほとんどないというのは本来不自然である。
わからないことをいいことに、モノを売る側(この場合病院)は好きなようにできるのである。
情報格差が大きすぎることが、通常の「買い物」とは異なった風景を生んでいる。
つまり、お金を払うのは患者なのに、お金を貰う側の医者に対し頭を下げたり、納得もいかないのに黙って従わざるを得なかったりする。
これはまともな消費行動とはいえない。
情報格差の大きさが、結果的に医療過誤を冗長させているといった見方も可能なのだ。
「知らない」ゆえに、何が医療過誤かもわからない状況では、患者が自ら身を守ろうというのは極めて困難であるが、少なくとも、まずは医療分野の特殊性というものを理解しておく必要はある。