Production著作/論文
コラム「がんについて」コラム「がんについて」の連載。
「がん告知」について
「がんの告知」について、ひところ「がんは告知すべきか否か」をテーマとして色々なところで語られたものだが、今ではあまり言われなくなった。
3人にひとりががんで亡くなる時代であることや、マスメディアを通じてがんの情報が一般にも広く普及しつつあることなどが要因だろうと思う。その他患者の権利意識や自己決定権といった概念の広がりも関係している。
つまり、最初にがんであることを本人に告げなければ、その後の治療が円滑に運ばないという現実的な問題が立ちふさがるのだ。
「インフォームドコンセント-説明と同意-」の真の意図は十分に果たされているとはいえないが、少なくとも告知を例にみていくと、検査や投薬の医療行為ひとつひとつについて患者の意思を尊重しようとすれば、当然告知は必要不可欠になってくる。
もちろん、例外もある。余命が1~2ヶ月の場合や、本人が、たとえがんであっても本当のことは絶対言ってほしくないと希望している場合などである。
前者は、あまりにむごい宣告なのでとても口に出せないという心情から、後者は本人の意思を尊重して、ということになるのだろうか。本来はがんの告知はケースバイケースが原則だから、「告知すべき」「すべきでない」と第3者が論争することこそナンセンスなのだ。
たとえ100人のうち99人が告知を希望していたとしても、たったひとりでも告知は嫌だという人がいれば、それに従うしかなのである。100人いれば100とおりの告知の仕方、気の配り方、説明の方法があってしかるべきなのである。
その際には、専門家としての経験や意向が重要になってくるにしろ、こんな当たり前のことを当たり前と思わずにいたから「告知すべきか否か」という不毛の論争がしばらく続いていたのだろう。
実は、この原稿はアメリカのシアトルで書いている。記事が新聞に掲載される頃には帰国しているだろうと思うが、同居させてもらっているホームスティ先の女性が先々週がんであることがわかった。
確かに彼女の様子は少しばかりおかしかったのだが、はっきり「がん」と診断された夜、ためらいがちに私の部屋に入ってきてその事実を告げたのである。
考えてみれば、まだ会って間もない異国の人間にそのような大事なことを話すということ自体ちょっとした驚きだった。
アメリカは、訴訟の国だから、がんならがんとはっきり告げることが担当医師や病院の保身のためだといわれている。もちろんそれもあるだろう。
しかし、それだけではなく、やはり個人個人の「責任」と「尊厳」を尊重している国なのだと思う。
治療をするのは医療従事者かもしれないが、「がん」であることや「がん」を受けとめることはその人自身にほかならない。
重くつらい事実と真っ向から向き合うことがこの国では当然のこととして行われているのを、思いがけず身近で経験したのである。