医学博士・医学ジャーナリスト
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植田 美津恵
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2011/01/10 文芸春秋1月号 近藤誠氏
"抗がん剤は効かない"への反論! ~がん患者の視点から~

はじめに

 再び、近藤誠氏が華々しく登場した。「抗がん剤は効かない」のテーマで。
 がんの三大治療が「手術」「化学療法(抗がん剤)」「放射線」といわれて久しい。がんが国民病と呼ばれるようになった今、がんに罹り現在治療中の患者は膨大な数にのぼるだろう。まさに抗がん剤治療真っ最中の患者もたくさんいるはずだ。そういう患者や家族からみたら、目を剥くようなタイトルである。
いったい今回は何を根拠にしてそう言い切るのか。
 十五年前に発表した「患者よ、がんと闘うな」に加え、さらに訴えたいことは何なのか。
 医療の現場に身を置く立場でありながら、現代医療を否定する理由は何なのか。
 近藤氏の真意を知りたい。そう思って目を通した。私自身ががん患者であり、昨年抗がん剤治療を受けた。私の友人も、抗がん剤治療中である。脱毛や白血球減少の副作用に耐えながら懸命に日々を送っている。
 抗がん剤が、副作用が強いわりには、再発防止にそれほど寄与しないこともわかっている。しかし、他に方法がないのなら仕方がない。わずかな可能性にかけて生きようとする患者たちを愚弄するような内容だとしたら、許すわけにはいかない。
 そんな気持ちで、「抗がん剤は効かない」を読み進めた。近藤誠ワールドへ勇んで突入してみた。

論文を読み解く

 全体の構成としては、前著書「患者よ、がんと闘うな」と大きな変化はない。取り上げる論文が少し増えていたり、「あなたの癌は、がんもどき」の中で触れているとおり自身の見解が多少変わっていたりはするが、基本的には同じ路線のレポートである。
 これまで発表されたデータ、とくに抗がん剤の承認を左右する比較試験結果の矛盾点をあげ、本当に効果がないのにあたかも効果があるように見せかけている事実を浮き彫りにしている。なかには、認可後に実はデータにごまかしがあったとの告白を織り交ぜ、いかに一連の試験結果がいい加減で、製薬会社のいいようにされているかがわかるようになっており、正義感の強い読者なら、憤りのあまり卒倒しかねない。一見効果がありそうに見えるグラフにもよく見たら作為があることを真正面から取り上げ、わかりやすく解説を加えている。
 論文の解釈については唸るしかない。「抗がん剤は効かない」と言い切るからにはよほどの自信が必要だが、ここでは「効果あり」の根拠になった論文やデータを丁寧に否定することがすべての論拠になっている。
 「ランセット」という一流の医学雑誌に掲載された免疫製剤クレスチンに関する論文で、「被験者全員を最低五年間は観察した」とありながら、実は、胃がん以外の理由で死亡した患者を生きているとみなして生存曲線を描いたことを暴いたあたりなどはむしろ痛快である。「ランセット」ともあろう雑誌が…と思うと、「権威」とはいったい何なのかという、根源的な疑問さえ沸き起こってくる。
 明らかにグラフとして奇怪なのに、論文審査をパスし、当該薬品が承認され、広く社会に浸透していく。しかし、実はデータそのものが捏造されているのだから、承認とか認可といったお墨付きは何の意味もなく、だから抗がん剤は効かない、簡単にいえばそういうことである。
 単に、売名行為として刺激的なタイトルをつけたわけでもない。ひとえに、現在繰り広げられている治療は、本当のところ効果がなく信用してはならない。賢い患者にならなくてはいけない。医療という業界が内から浄化されることはもはや不可能なのだから、患者に期待するしかない。そんな気持ちが強いのだと思う。実際、十五年前物議をかもし出したときにも近藤氏はそのようなことをあちこちで口にしていた。その真摯な願いは文章の行間にも垣間見える。氏の努力や必死さが伺える。

現実との乖離

 「患者よ、がんと闘うな」が世に出てから十五年が経過したが、その間、医療は大きく変貌した。
 がんの告知はほとんど当たり前になった。患者の権利意識が高まり、インフォームドコンセントもセカンドオピニオンも、内容はともかくとして人々の中ではすっかり定着し、意識化された。
 インターネットや医療情報番組のおかげで、健康や病気に関する人々の関心は高まり、かつ柔軟な考え方ができるようになった。中には「モンスターペイシェント」と呼ばれるような、いいたい放題やりたい放題の患者も登場するようになった。医者の前ではただひれ伏すだけだった時代とは格段の変化を遂げたのだ。もちろんこれは総論であって、ひとつひとつの事例を見たらそうとはいえないものもあるだろうが、形は少々いびつでも「患者中心の医療」を目指し、それぞれが悪戦苦闘した結果が今なのである。
 たとえば冒頭には、非小細胞がんを例にあげ、その治療成績のデータのうそ臭さを暴いているが、いまどき進行している肺がんが抗がん剤で治ると信じている者はいるのだろうか。少なくともこういった症例を前にして「治ります」という医者はいない。ここまで進行したがんの場合、抗がん剤は「気休め」であり、「他に選択肢がない」ために勧められるだけだというのは、患者だって勉強して知っている。
 抗がん剤は、白血病や悪性リンパ腫など「血液のがん」の多くには効果があるが、肺がんや胃がんのような「固形がん」ではたいした効力がない、ということも何となく認知されている。少なくとも臨床医たちは知っている。しかし、目の前にいる患者を何とかしなければ、と思うあまり、治療法のひとつとして提示せざるを得ない。データが虚飾に満ちている事実以前に、臨床医たちは肌でそれらの効果が顕著でないことがわかっているはずだ。それでも勧めるのか、といわれても「仕方がない」というのが正直なところではないだろうか。そこにはわずかな期待と、「効くものは効く、効かないものは効かない」という達観があるようにも思う。
 私が、近藤氏の勇気ある業績を認め、それらが決して間違っていないことを理解しても尚、あえて「反論」したいのは、「では、臨床医は、患者はいったいどうしたらよいのか」の具体例があまりに乏しいせいかもしれない。
 近藤氏は、レポートのなかで「読者がこのことを理解するには、臨床試験と正面から向き合う必要がある」と主張する。しかし、それは無理というもの。この種のデータを見慣れていない人にとって、つまり一般のがん患者にとっては難しすぎて、せっかくのレポートは結局ごく一部のがん患者が理解する一方で、ほとんどはそのセンセーショナルなタイトルだけが頭に残り、医療への不信感に包まれ、ただ混乱を深めるのである。

私のがんは「がんもどき?」

 私は、二〇〇八年夏に初期の乳がんと診断された。このときは他臓器転移はなかった。近藤理論に従えば、私のがんは「がんもどき」ということになる。しかし、それは本当だろうか。手術前には様々な検査を行い、転移の有無や全身状態のチェックを行うのが一般的だが、もしかしたらあったかもしれない「他臓器への転移」は見逃された可能性がある。あまりに微小のため、今ある検査技術では発見できなかっただけかもしれないのだ。
 近藤氏は、がん細胞の有無をみる病理検査の精度にも大きな疑問を呈している。「あなたの癌は、がんもどき」の中では、病理検査のための生検組織が人為的に入れ替わり、がんでもないのにがんと診断された女性の話があるが、このような明らかな「犯罪行為」が日常行われているわけではない。こういった例があるからといってがんの診断をすべて疑えということではないのだが、いかんせん一般読者はそう思わない可能性がある。この種の針小棒大じみた箇所がところどころ出てくるのは気になるところである。
 しかし、病理検査そのものの精度についてはかねてから疑問視されている。人の目で診てがん細胞がどうかを判断する作業がいかに難しいか、その点にまつわる誤診や係争はあちこちで起こっているだろう。しかしそれとて「故意」ではなく「ヒューマンエラー」として捕らえるしかない。今行われている多くの検査の不確かさや未熟さが誤診の要因のひとつになっていることは改めて認識する必要があるのは確かだ。しかし仮に、がん細胞の有無をチェックする病理検査を頭から否定すれば、そもそも近藤理論さえ成り立たない。がんの正体がたとえ不明であっても、現段階の技術の結果でもって話を展開していかなければ議論が進まない。
 さて、温存手術後、主治医は私に抗がん剤の話をした。これは補助療法と呼ばれるもので、目に見えるがんは取り除いたが、発見しきれていない可能性もあるし、乳がんは全身病と呼ばれ、がん発見のときにはすでに全身のどこかにがんが存在するといわれているので、それを叩くため、との説明を受けた。ところがその時点では主治医は私に「勧める」ことをしなかった。抗がん剤をした場合としなかった場合とでは再発率は数%しか違わない。強い副作用が現れることは必須だから、治療を受けるかどうかは私の人生観の問題だ、と、そう言ったのである。私が選択できるように話をしてくれた主治医に私は感謝した。そして熟考した結果抗がん剤は受けないことを選んだのである。
 その後、二〇〇九年七月、残存乳房にがんが再発した。今度は全摘手術とその後の抗がん剤を勧められた。再発はショックであったが、治療方法は当然であると受け止め、私は素直に従った。ただ、術後の乳房の再建手術をしたいという希望と、できるだけ仕事を休まずにこれまでどおりの生活を続けたいという思いを口にした。
 同年八月に全摘の手術を受け、その後外来で抗がん剤治療を受けた。化学療法により自分のからだがどう変化するか観察する気分だったが、マニュアルどおり、見事に髪は抜け白血球はどんどん減少した。しかし、仕事は一日も休まず、日常をそれまでと同じように過ごした。多少の副作用はありながら、十分想定範囲内であり、希望通りの治療経過に私は満足感を覚えていた。
 今年の三月には予定通りインプラントを挿入する再建手術を受け、今に至っている。体調はすこぶるよく、新しい髪の毛も順調に生えそろい、もはやがん患者であることを忘れるまでになった。
 私は、偶然に、自分自身で「へこみ」として自分のがんを発見した。マンモには映らないタイプだったこともあり、当初は早期発見といわれ自分をほめてやりたい気分だった。しかし、最初の温存手術の後に再発もした。そういうこともあるのだから、それも事実として受け止め、前を向いて歩いていくしかなかった。
 近藤理論によれば、自己チェックも必要なく、手術はかえってがんを怒らせ、抗がん剤は効かないのだからするだけ無駄ということになるが、そのとおりにしていたら、果たして今私は生きているだろうか。あるいは日々大きくなるがんを抱えながら何もせずに暮らしているだろうか。
 答えは「わからない」、である。わかっているのは今こうして「生きている」という事実だけである。それ以外の「もし」は存在しないし、考える意味がない。近藤氏だって、今の私に対し一連の予防・治療行為すべてを否定する根拠は持ち合わせていないと思う。

医療は壮大な人体実験

 医療とは、医学という学問を基礎に展開する対人間的行為である。…とした場合、医学とは果たして学問なのだろうかと疑問に思うことがしばしばある。一〇〇歩譲って学問だと認めても、ではそれは「科学」なのかとさらに疑ってみる。学問というには、また科学というにはあまりにも一貫性に欠けることが多すぎる。医療が、個体差を持つ「対人間的行為」である限り、それはずっとつきまとうジレンマであり矛盾性であり宿命であるのだと思う。
 近藤氏は、がんには「がんもどき」と「本物のがん」があるという。それだけではないはずだ。恐らくがんは個体差としてもっと多岐にわたって異なる性質を持っているのではないだろうか。つまりそれは、「同じ乳がんでも、私のがんとあなたのがんは違う」ということを遺伝子レベルで示すことにつながっていく。
 だから、あらゆるデータに安定感がないのだ。示された論文や試験結果は近藤氏の言うとおり、ときに捏造されときに過大解釈されてきた。サンプルとなったがんが皆異なるものであったとしたらデータが揺らぐのも当然のことであり、むしろ、あるひとつの薬剤がすべてのがんに効果を持つことを期待るほうが間違っているのかもしれない。
 患者は極めて自己中心的存在である。欲しいのは一般的なデータではなく、「私にとってどうか」という一点に尽きるのだ。
 医療は、壮大な人体実験という側面から逃げられない。試行錯誤を繰り返しながら最大公約数的な治療方法を確立していくしか方法はない。そうやってとりあえず医療は「進歩」してきたのである。現に、数々の症例を経験しているからこそデータとしてまとめることができ、次のステップに進める一歩が踏み出せるのだ。
 近藤氏は乳がんについて、早くからハルステッド法ではなく温存療法を推進してきた貴重な医者である。確かに、最近ではどの病院も「温存率」を競うかのようにデータを公表している。しかし温存という優しげな呼称とはかけ離れた乳房の「変形」に悩む女性はたくさん存在する。
 その声を受けて今では、形が変形し残存乳房に再発をもたらすリスクのある温存より、全摘して再建という流れのほうに勢いがある。これも数々の人体実験の結果として認知されたことである。過去を失敗とみなすのは簡単だが、未来へとつなげるためには必要な過去だったのだと思えば、自分自身の体験を振り返ってみて、よりよい治療を目指してこれからも続く人体実験に参加できたという自負が芽生える。
 近藤氏は、抗がん剤の承認について数々の不正が行われた要因を「利益相反状況」として批判している。いわゆる製薬会社と医療界との癒着である。残念ながら程度の差はあれ、それも事実だ。製薬会社だけでなく、CTスキャンやMRIなどの高額医療機器メーカーも同様だろう。あらゆる世界に不正はあり、それはたとえ人の命を預かる「聖域」と呼ばれる分野であっても同じ現象が繰り返されるのだ。あまりに目に余る不正や不義は「犯罪」として罪に問われなければならない。司法国家では当然のことである。近藤氏のレポートを読んで、司法・警察関係者や身に覚えのある医療関係者から勇気ある行動が生まれることを願うばかりだ。
 先に、近藤氏の主張に間違いはないものの、必要なのは「では、どうしたらいいのか」の具体的な示唆だと述べた。私も、がんになったときに頼るべきものがほとんどないことに気づき愕然とした。治療の選択ということではなく、精神的なよりどころという意味で。医療と宗教が完全に分離されてしまった現状では、生活習慣病の中でももっとも致死率の高いがんになったときに、心を支えるものがあまりに貧弱なのを痛感した。死を意識したときの自分の「有り様」を問われているのをひしひしと自覚した。
 いわゆる三大生活習慣病(がん、心疾患、悪性新生物)になったら、「治らない」と考えたほうがいい。いつか必ず再発すると割り切って捉えていたほうが確かである。治ったように見えても、病気を得る前と後では「違うからだ」になっているのを認識することだ。
 人間いつかは必ず死ぬ。だからこそ、生きているからには楽しく自分らしく過ごしたいと考えるのは誰でも同じである。病気になれば、ゴールがそう先ではないことを思い、余計にそう考える。
 医療はそんな患者の願いに対しどうこたえていけるのだろうか。
 今、医療に問われているのは、病気になった人やその家族へのアプローチの方法と将来像ではないだろうか。とことん病気と「闘う」のではなく、病気とともに生きる人々をどう支えていくのか、寄り添っていけるのか…。
 現代医療を否定するだけでは物足りない。だからこその「反論」である。
 自分の人生を医学に頼り過ぎてはいけない。医学だけではなく哲学や経済学や文学や歴史、心理学、そして宗教…幅広い人間の英知を駆使し、現代人を悩ませる未曾有の「がんの時代」に取り組む姿勢が社会全体に必要なのだと思う。

平成二十二年十二月二十日記  植田美津恵

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