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2005年2月24日~3月7日掲載 「民間」という言葉への違和感

「民間」という言葉への違和感

 どうにもよくわからない言葉に「民間」「民間人」がある。2月23日の報道には、「初の民間人区長」の見出しで、川崎市の宮前区長に民間人を登用するという記事を目にした。民間人が政令市の区長になるのははじめてらしい、だからこそニュースにもなるのだろうが、それほどのレアケースなのかということに驚かされた。少し前にも、公立学校の校長にサラリーマン経験のある人を採用して話題になったし、その中のひとりが周囲に馴染めず結局自殺にいたった際にも「民間人校長」の表現が当たり前のように使われてきた。新しい内閣が発表される際には、閣僚として女性や民間人が何人選ばれるかがいつも話題になるが、この場合には「民間出身の…」と呼ばれる。戦争や紛争時の犠牲者は「民間人」と称されることが多く、これは武器を持たない、非戦闘の国民を指しているようである。役所に代表される官公庁に勤めている者、すなわち「官吏」以外は民間人と呼ばれているわけだが、その使われ方に「見下し感」が見え隠れするように思うのは、「民間人」である私の気のせいなのか。教育者、あるいは行政マンとして経験のない者が校長になれば「民間人校長」や「民間人区長」、戦う術を持たない者が戦争で命を落とせば「民間人犠牲者」となる。小難しい定義はともかく、そこには教育や戦争の「素人」という、どこか「フン」と鼻でせせら笑うような、または「弱者」に向ける優位な視点が潜んでいる気がする。しかし公務員だった者がサラリーマンになっても「官吏会社員」とは決して言わず、むしろ「天下り」というくらいだから、ああいかにも、と納得ざるを得ない。もっといえば「民間のくせに」ともいう。これは明らかに官が民を馬鹿にした言い様であるが、そこには給料を民間人の税金から絞り取っている優越感があるのみで、能力や勤勉さの差を表しているのでないことは、民間人なら誰もが知っている。だから私は時々「役人のくせに」というときがあるが、逆に役人を見下した気持ちがあるからであり、それはむしろ能力や勤勉さ、適応力、柔軟さの差に従って口にするのである。本来は、官も民も関係なくモノやヒトの評価をするのがベストである。しかしどうにもできないでいる。常に官は民を低く評価し、また民と呼ばれる人々も卑屈に振舞いがちだ。新しくできた中部国際空港は、民間(企業)が介入した点で評価されている。しかしその評価の声はあまりに低く、ではこれからどんどん民間で進めよう…といったムードはさらさらない。これは単なる稀なことに過ぎないと冷めた目で見下している、特に官が、である。郵政の民営化に反対するのも肝心な規制緩和が進まないのも、すべて官が民を馬鹿にしているからであり、自分たちの既得権益を守りたいがためである。官でも民でもどちらでもよろしと言うは易し、しかし目に見えない因習の呪縛は手ごわいものだ。せめて、何気ない現象や言葉に潜む違和感が、どこから生まれそれが何故なのかを考えるセンスは失わないようにしたいと思っている。

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