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9月2日~9月16日掲載 「患者中心の医療」が育たないわけ

「患者中心の医療」が育たないわけ

 短いペルー滞在を終えて、帰国後率直に感じたのは、相変わらず「うるさい国」ということだった。ちょうど日本テレビの「24時間テレビ」があったり、多摩川に出現したアザラシ騒動があったり、という時期だったから余計かもしれないが。「24時間テレビ」の主旨については今ひとつわからないのだが、時々チャンネルを合わせると、タレントにマラソンさせたり、山を登らせたり、難病患者を取り上げたり、病気を題材にしたドラマを仕立てたり…などの内容が延々24時間も続く。募金活動もやっているらしく、そんなこんなで集まったお金を寄付することが目的のようでもあるし、医療や福祉などの地味な分野にスポットライトをあてることを狙っているようでもある。それとも単に視聴率アップのため、という気もする。
 しかし、全体の印象としては「感動の押しつけ」以外の何ものでもない。「ほら、こんなに可哀相な人がいるよ」「どう?感動的でしょ?面白いでしょ?」「これ見たら泣いちゃうよ」などというように、身勝手な感情をぐいぐい押し売りされているようで、こちらは疲れてしまうのである。そうかと思うと、どういうわけか多摩川や鶴見川に突然現われたアザラシを、マスコミも大衆も連日追いかけている様子が目に飛び込んでくる。挙句の果ては、少し痩せたみたいだから保護して欲しい、といった声まで聞こえてきた。野生の動物にとって、人間の存在がどう映るかはわからないが、少し水面から顔を出したとたん黄色い声援が飛んでくるのである。落ち着かないのも無理はないし、やつれてしまうのも分かる気がする。「癒される」だの「夏休みのいい思い出ができました」だのといった発言があったが、アザラシの気持ちなどまったく考えない、何て安易な発想だろうとあきれてしまった。アザラシなら、「可愛いー」と大騒ぎ。でも、あれがワニや大蛇だったら?おそらく「キャー」だの「怖いー」だのと大騒動だろう。しかし、我々と同じように必死に生きていかねばならない動物であることに変わりはないし、もしかしたら、アザラシだろうが大蛇だろうが、何らかの天災の前触れかもしれない。由々しき環境問題が発生していないとも限らない。
 いずれにしろ、単純で付和雷同的な見方はやめて、もう少しコトの成り行きを静かに見守ってあげることはできないものだろうか。話は突然変わるが、こんな風景を見ていると、「患者中心の医療」などこの国にはいつまでたっても根づかないような気がしてしかたがない。なぜなら「患者中心の医療」って聞こえはいいが、実はものすごく大変なことだからである。まずは患者になったら、自分の病気、健康状態をきちんと知っておく必要がある。医師から情報を得るのもいいが、様々な媒体から客観的なデータを集める必要もある。その病気が死にいたるものであったり、何らかの障害を残したりするものであれば、仕事のことや家族についてたくさんの事柄を考える必要が出てくるだろし、どうやっても拭いきれない疑問や不安にも耐え、深い孤独感をも味わうことになる。そのようにして、すべての感情を抱えながら、冷静に治療法や病院を自分の責任のもとで選んでいかねばならないのだ。それが自分の病気を「受け止める」ということだし、「患者中心の医療」のスタート地点である。「患者中心の医療」は誰がやるのかといえば、「患者」が担うのだ。いくら良識ある医師が「患者中心の医療」を叫んでみたって、医師らはあくまで脇役のはず、そうでなければ「患者中心の医療」というのはおかしいだろう。基本的には人はひとりでそのようなアクシデント(病気)に立ち向かわねばならない。つまり患者は賢く、大人でなければならないのだ。が、一連の動きを見ていると、多くの国民の精神構造は幼く、しかも悪い意味で単純かつ薄っぺらな体質を抱え込んでいる。これでは、患者にとって厳しいばかりの「患者中心の医療」など実現できるわけはない。なんでも医師まかせにしたほうがよっぽどラクである。だからなのか、「患者中心の医療」を叫んでいる人など極く一部の人々に過ぎない気がしてきた。そういえば、いったい「患者中心の医療」とは、誰がいつ何のために言い出したのだろうか―、テレビの馬鹿騒ぎを見ていると、思わぬ疑問が沸いてきてしまった。

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