医学博士・医学ジャーナリスト
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植田 美津恵
日本の医療・福祉・健康を考える

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コラム「一刀両断」コラム「一刀両断」の連載。

8月10日~9月1日掲載
異なる「言葉の解釈」

 医療事故が後を絶たない。つい先日も東京女子医大の医師がふたり逮捕されたが、この種の出来事では異例のこととして注目をあびた。何をもって医療事故と呼ぶかは、はなはだ判断の難しいところだが、今回は、同じ言葉でも、医師という専門家と、素人である患者とではとらえ方が異なっていることについて考えてみた。先日、ある医師の話を聞いた。彼は免疫療法が専門であり、最新の免疫療法についてレクチャーしてくれたのだ。

 免疫療法とは、特別目新しくはないが、比較的副作用のないがん治療として注目をあびている治療法である。いくつかの症例をスライド等で示しつつ、あるケースに関する説明に入った。その際、「この治療は大変うまくいき、血液の検査データは素晴らしい改善を遂げました」と誇らしげに述べたあと、「残念ながら患者は亡くなりましたけど」とさらりと言ってのけたのだ。聞いている人は皆病院関係や医学系研究者ばかりで、誰も疑問に思わなかったようだ。しかしこれは、普通の感覚でいえば明らかにおかしい。なぜなら、患者は皆死にたくないと思うから、勇気を持って治療を受けるのだろう。治療の結果、検査データが一時的によくなったところで死亡したのでは意味がない。ところが、それは一応「治療の成功」とみなすのが専門家の常識というわけである。

 医師という専門家の枠を超えて活躍中の養老孟司氏のエッセイを読んで驚いた。彼の若い頃の話、7時間ぶっ通しの手術に挑戦した経験をまとめたものである。このなかで、やはり「手術自体は成功したが、患者さんの意識は戻らずに亡くなった」という記述があった。ん~、養老さん、あなたもですか、という気持ちである。このようなことを何の抵抗もなく言ったり書いたりする神経は、普通の感覚ではまず理解できない。以前から「手術は成功、でも患者は死にました」という皮肉はよく耳にしたが、改めて考えてみると、こんなところに患者の医療不信や訴訟にまで発展する医師と患者間の未熟な関係性が垣間見える気がするのだ。がん治療の際、その成績を評価するときには、がん細胞が縮小したり消失したりすることが重要で、患者の生死にまで話が及ばない。したがって、たとえばすでにがんの末期で余命わずかとわかっているにもかかわらず、治験段階の抗がん剤を使用したがる医師が存在することになる。つまり、その薬剤ががん細胞をどれくらい縮小するのかを見たいがために、瀕死の患者に投与するのだ。目的は論文を書いたり学界発表したりするところにあるのかもしれない。もし、がんが少しでも縮小すれば、その抗がん剤は「効き目があった」と評価される。このような、患者や本人にしてみれば意味のない行為がまかりとおっているのが医療という世界の不思議さである。胃がんで亡くなったアナウンサーの逸見さんは、医師から「1%の成功の可能性」があるといわれ手術にのぞんだ。1%という数字は、限りなく0に近い。ないに等しい。しかし、少しでも生きたいと考える本人や家族はその1%にかけるもの、冷静に考えれば無謀な行為である。亡くなったとき、やはり家族はその言葉にひっかかりを覚えていたようだ。1%という数字の持つ意味や期待度は、医師と患者・家族とでは明らかに違っているのである。

 現在の医療不信を解決するために、医師の研修が本格的に検討されている。どんな研修内容になるかわからないが、いずれにしろ、専門性が高いということと普通の人(患者)の感覚とはまったく異なったベクトル上にある、そんな気がして仕方がない。ふたつのベクトルの接点を模索するより、両者を近づけるコーディネーター役を育成するほうがよほど早いのではないだろうか。

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