医学博士・医学ジャーナリスト
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植田 美津恵
日本の医療・福祉・健康を考える

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コラム「一刀両断」コラム「一刀両断」の連載。

5月11日~5月20日掲載
本当に教えるべきことは何だろう

 ちょっとした縁で、ある中学校の授業を見学する機会を得た。中学3年生の教室では、すでに進路や受験がテーマになっている。現在の高校進学率は90%前後だという。ある中学教師にいわせると、高校も中学延長の義務教育にしたらどうか、とのこと。90%の進学率なら、中高一環にしてしまったほうが、「受験のための勉強」をしなくてもすむ。むしろそうすることで教師も子供も精神的にゆとりができるというのだ。残り10%の少数派が気になったものの、一理あるかな、と思った覚えがある。さて、その授業では、事前におこなった進路希望のアンケート結果の披露から始まった。まだ14や15歳だから、しっかりした将来の夢を持つ子のほうが少ないが、しかしそれは当然といえば当然。今年44歳になる私でさえ、いまだに「自分にふさわしい生き方」を模索し続けているくらいである。が、中には「小学校の教師」「看護師」「ダンサー」「動物関係の仕事」などなどの、ある程度固まった夢を書いた子があり、教師がそれらを匿名で紹介すると、そのたびに歓声があがっていた。やはり「将来の夢」を語るということは、いつの時代でもいいものだと素直に感じた。

 次に、教師は、高校進学後に何らかの理由で学校を辞めてしまう子が年々増えていることについて数字をあげながら説明を始めた。それによると、高校3年間のなかで、1年生のうちに辞めてしまう子が圧倒的に多く、2年3年と学年が上がるごとにその数は減っていくが、それでも全体数は減る傾向がない。平成8年には高校中退者数が10万を超え、これは高校生全体の3%に相当する数字である。根拠はないが、今の世相を見ていると、中退者はもっと増えていくのだろうと思えてしまう。そして、M君という子を例(実例?)にとり、高校入学から中退にいたるまでの過程を読み上げ、その後生徒に感想を言わせたのである。M君の経緯を簡単に記すと、M君は最初A高を希望していたが、親しい友人がB高を志望していたので、M君もなんとなくつられてB高を目指すようになった。学力の点ではやや不安があり、担任も「大丈夫か」と心配してくれたが、M君はそのままB高を受験、難しいといわれていたにもかかわらず見事合格したのだった。ところが、いざ入学してみると、最初は楽しかったのだが次第に勉強についていけなくなり、高校を休みがちになってしまった。とうとう1年の中頃に高校を中退し、今では大検をめざしてがんばっている、という内容であった。M君の例について、生徒たちからは次々に意見が出された。いわく、「友達につられたのがいけなかった」、「担任も心配してくれたのだから、もっと深く考えたほうがよかった」「色々な人に相談したらよかった」「難しい高校に入れたので浮かれて油断したのじゃないか」「最初の希望どおりA高を受けたほうがよかった」などなどである。おおまかこのような意見が出され、教師もそれらに満足し、「志望校の選択は慎重に」といったメッセージに満ちた雰囲気でその時間が終わった。生徒たちの発言に間違ったところはない。いずれももっともだとは思う。しかし、私はしばらくこの授業が忘れられなかった。どうにも引っかかることがあった。それはこういう思いである。M君は、無理だといわれた学校に頑張って勉強した結果合格したのだが、その点を誉める発言は一切なかった。また、入学後悩んだ末に、学校を1年足らずで辞め、大検を目指すにいたったM君の決断を尊重したり、大検に受かるよう頑張って欲しい、といった類の意見も全くなかった。

 私にはそのことがとても気になった。そもそも長い人生で、高校の選択や進路の変更は「失敗」に値するほどのことだろうか。たとえそれが「失敗」だとしても、本来いくらでも軌道修正できるはずである。偏差値という名のものさしを重視して受験する学校がほぼ決まるようだが、実際は受験してみないとわからないものだし、そのときに自分の偏差値を超えた高校に挑戦しようというのは少しもおかしくはない。また、どの高校にしろ、入ってみなければわからないというのが本当で、入学後に壁にぶつかり、そのときに悩み考え、自分にとって最良の道を選びなおすことだって全然変じゃない。むしろおかしいのはそれを許さない社会の姿勢や大人たちである。だからいつまでも、高校中退者のマイナスの面ばかり強調され、結果的に彼らの将来にフタをしてしまうことになるのだ。授業を思い返してみると、やはり教師の言いたいことは「無理するな」「自分の学力に合った高校を選べ」「教師の言うことを尊重しろ」「高校選びは慎重に」などであっただろう。それは立場上、いたしかたのないことかもしれないが、それだけでは子供たちはあまりに窮屈である。様々な生き方があり、色々な考え方があるはずだ。学校歴だけで人を判断する悪習が、たかだか10代の頃に生じた「失敗」を許さず、その修正を認めない社会を作ってしまった。確かに「高校中退者」に明るいイメージはない。それは社会や彼らを受け止める大人たちの責任だろう。高校の偏差値や大学名にこだわり、いつまでもそれらを引きずり、こだわり続けている。何ともばかばかしい限りである。「失敗を恐れるな」―生徒たちに伝えるべきは、その一言ではなかっただろうか。

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