医学博士・医学ジャーナリスト
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植田 美津恵
日本の医療・福祉・健康を考える

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コラム「一刀両断」コラム「一刀両断」の連載。

1月22日~2月4日掲載
「医師法」は誰のためにあるの?

 今年はじめ、読売新聞の社説で以下のような記事を読んだ。「助かる命を救うことが先決だ」と題されたその記事によると、呼吸や心臓が止まった人の蘇生法として、チューブを挿入して酸素を送る「気管内挿管」という方法があるが、これは通報を受けて真っ先に現場に駆けつける救急救命士には認められていないということである。ところが、秋田県内でここ5年間に1,500件以上の気管内挿管を救命士が行っていたことがわかり、厚生労働省らが大騒ぎしているらしい。山形県でも同様のことが行われていることが判明したが、これらは医師法に反する行為としてみなされ、結果的にすでに救急車からは気管内挿管の器具は外された、とある。何でもかんでも医師の指示のもとに、といった取り決めがあるためにせっかくの蘇生・救命の機会を逃してしまう可能性については、随分前から問題になっていた。記事を読みその理不尽さについて改めて怒りを覚えたものの、すでに千の単位で救命士による気管内挿管が行われていたことにある種の感動を覚えた。人が何らかの原因により心臓や呼吸が停止してしまった場合の緊急措置として「心肺蘇生法」が推奨されている。

 これは、救急車が到着するまでの処置であり、まず1.意識の確認、2.人を呼ぶ、3.気道の確保、4.鼻をつまみ、口を覆うようにして息を吹き込む、5.頚動脈を触れる、6.頚動脈の拍動が触れなければ心臓マッサージを行う、の順で、4の人工呼吸を2回、6の心臓マッサージを15回繰り返すのが基本となっている。停止後、1分以内に蘇生法に着手できれば99%の蘇生率、2分以内なら97%、3分以内では75%と、分刻みにその成功率は落ちていく。停止後8分間何もしなければ蘇生率は0%となる。まさに時間との戦いである。この人肺蘇生法を行うには特に資格を必要としないが、問題は、確実に気道を確保するために行われる「気管内挿管」は医師しかできない、という点である。人肺蘇生法の3にあたる「気道の確保」は、舌根が沈下しているために実際には非常に困難であるため、特殊な挿入器具を使用して気道を開く方法が「気管内挿管」である。これが、医師法により医師にはできて救急車に乗って駆けつけてくれる救命士らにはできない医療行為であることが今回の物議をかもし出している。おそらく、救命士らはそういった法律のことは百も承知だ。知っていても目の前に意識がなく心肺機能の停止している人を見れば、「助けたい」気持ちが優先するのは、むしろ職業倫理に適った行為である。

 似たような話に、在宅介護におけるホームヘルパーの医療行為という問題がある。現在ホームヘルパーには医療行為は一切認められていない。たとえ爪きりひとつ軟膏を塗ることひとつにしても医者の許可が必要となる。昨年末に東京で介護保険に関するシンポジウムが開催された際(そのテーマは、"魅力ある介護労働"だった)に、やはりこの話題がのぼったが、壇上の有識者や厚生労働省の人間は他人事のような話しかしなかった。特に厚生労働省の役人は、その問題は管轄が違うのだと言い放った。会場で一参加者として座っていた私は思わず手をあげ、「せめて家族に認められている爪きりや吸入などの医療行為くらいはヘルパーでもできるようにしていかなければおかしいのではないか。そのような現実的かつ前向きな議論をしてもらわないと、ヘルパーはいつまでも一職業としての魅力に欠けると思う」と発言した。すると、会場から一斉に拍手が沸き起こったのである。彼女らこそ矛盾を抱えながら現場で働くホームヘルパーたちであった。このように、硬直化保守化した日本では、一番大切な事柄を法律の枠内でしか考えられない癖がこびりついてしまった。これは恐ろしいことだ。気管内挿管は難しいには違いないが、医師にだって一度も挿管の経験を持たない人もごまんと存在する。

 すでにアメリカのシアトルなどでは研修を重ね救命士の挿管も薬剤投与も認められている。こうしている間にも救われるべき命がむざむざと無駄になっている可能性があるのだ。秋田市の心肺停止患者の救命率は全国平均の3倍以上だという。旧い法律に縛られるよりも、この「実績」を正当に評価する健全さを私たちは持つ必要があると思う。昭和23年に制定され、以後改正を続けている医師法の総則には「医師は、医療の向上および保健指導を掌ることによって、公衆衛生の向上および増進に寄与し、もって国民の健康な生活を確保するものとする」とある。前半の「手段」が後半の「目的」を凌駕するようでは、その法律はすでに死に体に等しいのではないだろうか。

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